yashigani?.days

週刊少年ジャンプについてだらだら書きます

明日は金曜日

東京へ日帰り出張、疲れた体を新幹線のシートに預ける。「帰りの新幹線ではビールを飲むんだ」チーフエンジニアの教えである。共に帰ることになった同僚と弁当の封を開け、缶ビールのプルタブを引く。東京は何度行っても疲れるけれど、帰りの新幹線の雰囲気は嫌いではない。そこかしらで私たちと同じように弁当を広げ、缶ビールの栓を抜く。車内は小さな幸せと笑顔で溢れている。そんなことを感じながら京都までの2時間半を過ごした。明日は金曜日だ。

人の挨拶を嗤うな

挨拶がないことや挨拶もできないのかと怒る人がたまにいる。けど、そういう人に限って自分から挨拶しないという経験則があって、挨拶する側じゃなくて挨拶される側の理論だなと耳にするたびにおもう。唯一例外は学校の先生で、彼らは挨拶しろと怒鳴りつけて、実際に挨拶してる。これは信条の話だが、コミュニケーション不全の原因を相手に押しつけるべきではない。挨拶されないのはされない側にされないなりの理由があるわけで、怒るくらい気に入らないなら人を変える前に自分を変えるべき。平たく言うと、挨拶しない側にとって存在感が無い。挨拶されるために自分を変えるのはいかにもコスパが悪いと感じるかもしれないが、気になるあの子に声かけられるために自分を変える、と言いかえるとなんか尊い感じがする。そういう感じ。

挨拶されないことに怒るより、自分から挨拶したほうが生まれる不幸は少ない。とやかく怒らずに普通に挨拶をすればよい。それを踏まえて私がどう振る舞いたいかというと、自分から挨拶したがらない人間に対して大声で挨拶する、そういう人間でありたい。

てんとまる

Twitterやめたら、インターネットに発信する機会がなくなってさみしいので久しぶりにブログを書くことにした。ちなみに、やめたというのは読んだり投稿したりするのをやめただけで、セルフブランディングを大きく毀損するのでアカウントは残していて、アカウントを削除して黒歴史を封印!みたいな根性めいたものではない。

5、6年前くらいから自分の書く文章では特に縛りがない限り句読点にカンマとピリオドを使っていた。たしかMacを買ったのがきっかけだったとおもう。なぜカンマとピリオドを使っていたかというと、シュッとしていてかっこいいからで、それ以上もそれ以下の理由もなかった。 Macでカンマとピリオドを使うのは簡単で、ことえりなりIMEの設定を変えればよい。しかし、問題なのはiPhoneで、iPhoneはそういう痒いところに手が届く設定が存在しないので、毎度変換するという苦行とポリシーを選ぶかポリシーを棄てるかという選択を迫られる。そこで私がどうしていたかというと、シュッとしているからという理由でカンマとピリオドを使う人間である。当然のごとくポリシーを貫くことを選び、甘んじて苦行を受け入れていた。インスタントメッセージでさえ、句読点を打つたびに変換する。渋さというのはこういったたゆまぬ努力から生まれるものだと自分に言い聞かせていた。

しかし、数週間前にこのポリシーにまったく意味がないことに気づいた。気づきは本当に急におとずれ、カンマとピリオドに変換する作業がまったくばかばかしくおもえてしかたなくなった。あまりにばかばかしいので、一度やめてみるとどうだろう。今まで息の詰まっていたような感覚からスーッとなくなった。これはすごい!とあまりに感動し、気付いたらMacの設定も変えカンマとピリオドをやめてしまった自分がいた。

この話にとくにオチはなくて、ただの日記なんだが、そういうなんかやめにくい習慣や決めごとってよくあるとおもう。やめてみるのはすごく簡単なのでちょっと距離を置いてみるっていうのもよいのかもしれない。冒頭に戻るけど、そういうおもいでTwitterをやめた。やめるのは簡単でiPhoneからクライアントを消すだけで完了した。もともとかじりついていたようなものでも無いので、通勤電車が少し手持ち無沙汰になるだけだった。